#1 凍結地点。幕は上がる。
「舞台が最も嫌うものは、いついかなる時も変わらない。」
【第一話】
間もなく、列車が減速を始めた。車内のアナウンスによって、次が己の降車駅であることを確認するや、早々に荷物を纏めて座席を立つ。
列車が止まり、ドアが開き、知らない土地の古くさいホームへ、ついに降り立った。
乗客も疎らな無人の改札を抜けて、地図を片手に土を踏む。ここはもう、冬の痕などひとつも残っていないほど、瑞々しく春を迎えていた。花が咲き、若草が世界を彩り、温暖な風を連れ立って鳥が舞って、歌う。
自然のまま、ヒトの手の入った様子もなくそこにある美しい光景に、普段は魅入られてしまっても仕方のないほどだが、今回ばかりは目的が違う。歩を進めるのが先決だった。
鬱蒼と生い茂る緑豊かな森の中を進んでいると、徐々に風が運ぶ空気が冷えてゆく。気付けば足元に草原はなく、茶色い地面が露出して、木々は葉こそ落としてはいないが、まるで凍りついた灰のような見目になっていた。
列車を降りてからというもの、防寒対策をした上で歩いて来て、むしろ判断を誤ったかと疑うしばらくだったが、どうやらこれで正解だったようだ。汗が冷えて風邪を引きそうなのはともかくとして、肌が寒さを感じながらも、正しく凌げている。
大雑把な地図の通りに進むにつれて、道が凍る。雪が積もる。花が消える。動物の声も静まり返る。吐いた息が白くなり、可視化される。手袋越しに指先が冷えていく感覚がある。鼻の頭も、少しずつ赤みを帯びてきたことだろう。
ほんの数刻前まで春にいたことを疑うほどの、この地域にあるまじき凍土。おかしいはずなのに、身を持って体感するまで実感が湧かない不気味さ。
──等間隔に並ぶ街頭が自分を出迎える。
直感、とても寂しいところだと思う。
そうして、なんと面白いことだろうか!
「……わあ、本当に、疑いようもなく冬の街だ! 地図の位置は絶対に温帯だと踏んで、化かされたものかと思っていたけれど、不思議なことは本当にあるんだね!」
一面の銀世界、周囲に誰もいない状況に心は弾む一方で、自分一人きりの世界に独白する役者の真似事をして声を張り上げてみる。やはり空気に沈んで融けてしまって、誰かが隠れている様子もなかった。
大地を足で踏みしめて現実を得る。調子に乗って小さな雪だるまを作り、3本目の街灯の下に置いてみたりしていたら、本格的に指先がかじかんできて、まずはどこか落ち着ける場所を探さなければ、と思い立つ。
閑静な住宅街を歩きながら、現地住民か、明かりの灯っている家か、店を探す。交番や駐在所でも、郵便局でも、道を訊ければこの際どこだっていい。道路が雪の下に沈んでいるせいか、草花も見られなければ、目に入る緑は常緑樹か観葉植物ばかりでいて、あまり生命を感じない。
このままいつまでも同じような風景が続くなら、自分以外のヒトが見られないなら、高揚は途切れ、好奇心を満たすことなく薄めて、やがて不安が取って代わるだろう。広く孤独の深刻さを語るのであれば、これほど適した状況はそうない。と思う。
そうして気分が落ちていくことに気を取られながら、自分でも与り知らぬうちに、導かれるようにして、迷いなく、ある家の前で立ち止まった。
明かりの灯って、人の気配のある家。看板には『喫茶書房 硝子堂』の文字。営業中のプレート。すぐに手を戸にかけようとして、しかし叶わない。
両側から押し開けるようなつくりの扉は、こちらにヒトがいるなど想像もしなかった、という勢いで勝手に開き、結果としてこちらの額を強く打ったのであった。
「〜ッ⁉」
「……あ、ごめん。気付かなかった。寛大な心で許してほしいな、視界と両手がこの通りだったんだよ。」
想定外の衝撃に混乱し、痛みに悶えて雪の上に座り込むと、上から声が降ってくる。額を押さえながら見上げると、日が暮れる頃の空を写し取ったような長い髪のヒトが、謝っていると捉えるには足りない態度でこちらを見下ろしていた。
反省の色はともかくとして、かれの弁明が事実に基づいていたことは間違いないだろう。現に、その手は前方の視界が危ぶまれるほど積まれた箱で塞がっていた。さっきの扉の勢いも、足か何かで開けたがゆえのものだったと予測できる。
地方の店ならではといったところか、力任せにした分だけ扉は勢いづくし、客と店員の距離感も全国展開された量産型のそれとは異なっている。いや、それにしても痛い。流血モノというわけではないが、シンプルに額がすごく痛い。今は頭部限定で寒さがいい感じに思えてしまうのが少し切ない。
「とにかく、申し訳のないことをしたから、これを置いたら改めて謝らせてもらうよ。とりあえず客席について待っていてくれ。きみを待っているやつも、もう何人か来ているからね。」
かれは文句どころか口を挟む隙さえ与えず、一方的に言うことを言って、忙しそうにどこかへ行ってしまった。
……あれは、本当に店員だと思っておくべきなのだろうか。
何か不可解なことも言っていた気がするが、それよりも扉が空いた瞬間、衝撃とともに肌を掠めた温かな空気を、決して後に回したくはなかった。どうせ入るつもりであった上、尻餅をついたせいで余計に冷たい目に遭ってしまったものだから、気を取り直して店に足を踏み入れることにする。
*〈視点─レオン・ベグジル〉
程よい音色のドアベル、肌に近い部分から順に包み込んでゆく温かな空気、それから本と珈琲の香り。きれいに磨かれた硝子窓から差し込む、曇り空に遮られた鈍い光が、眩しすぎなくて心地よかった。
この空間は間違いなく僕を歓迎している。そんな錯覚をしても不自然なことは何ひとつない。
「やあ、いらっしゃい。さっきはうちの店員がすまなかったね。あれは顔色をさっぱり変えないからわかりにくいのだけれど、悪気があったわけじゃあないんだよ。それだけは信じてやってほしいな。」
次に僕を出迎えたのは、どちらかというと夕暮れ空の遠いところから切り取ったような色の髪をハーフアップでまとめた、眼鏡の青年だ。先程のかれとは打って変わって、親切に氷嚢を差し出しながら、申し訳なさそうに眉を下げて笑う。
「何より、かれに仕事を頼んだのは僕なんだ。まあ、適当に座ってくれ、サービスするよ。珈琲でいいかい?」
「構わないよ。でもあんまり熱くしないでもらえると助かる!」
「わかったよ。」
厨房から話しかけられたためか、僕が最終的に腰を落ち着けたのはカウンター席だった。3つあるうちの左端には先客がいたから、ひとつ真ん中をあけて右端に着いた、というわけもある。
珈琲を待っている少しの間にも客は入ってきた。テーブル席もよく見ればその場の相席らしい人々の姿も見られるということは、それなりに繁盛しているらしい。
一通り店内を見回した頃に、いい塩梅に熱すぎない珈琲を出された。
「美味しいね、これ。味もだけど、いい具合に熱すぎなくて。」
「それはよかった。猫舌の常連さんがいるものでね、キミのはその恩恵と言ってもいい。」
「なら、先達の猫舌さんに感謝しておくとしようかな。」
それくらいの、ちょうど会話が途切れたタイミングで、またあのドアベルが鳴る。店主は「いらっしゃいませ」と言わずに「おかえり」と言ったので、さっきの店員(やはり店員で良いらしい)が戻ってきたのだろう。
「さっきはごめんね。珈琲は店主からのサービスだろ? もし他のものも頼むなら、それは別に僕が奢っておくよ。」
「ああ、もういいよー。事情もなんとなくわかったしさ。」
でも食費が浮くのは助かるな! と付け足すと、ちゃんとした食事をとればなおいいと思うよ、と返された。ほんの少しだけ口元が緩んだような、いや、やはり見間違いだったかもしれない。
「──さて! こちらの話も落ち着いたところだ。待たせたね、お客さん方。歓迎するよ。ようこそ、春に置いていかれた街へ。」
話や食事があらかた片付いたところで、いつの間にか店主が厨房から出て、僕たちの前に立っていた。
「えっ、ちょっと待って!」
唐突に始まった挨拶に、ただならぬ雰囲気を察しつつもぽかんとする一同のうち、すぐに反応をしたのはゴーグルと星がトレードマークっぽい、店内でも比較的春らしい装いの女の子だった。
「ここにいる人たち、みーんな、この街じゃないとこから来たってこと⁉」
肩の上で大人しくしているハムスターと、向かいにいた眠そうな白熊の青年も同意を示すようにこくこくと頷いている。
「そうだよ。少なくとも僕は、ここにいるお客さんとは誰とも会ったことないね。」
「っカァ〜……お客さんにも街の話とか聞けるかな! ってニルと話してた時間はなんだったんだよう……ねー、ハムカツちゃーん……」
「……リリー。この店の客にいないからと言って、住民が全くいないとは決まってな……元……気を……出……」
きっぱりと言い切った店主に対して、明らかに沈む感情を全身で表現する彼女は、なんだかいっそう愉快に見える。沈んだ彼女のことをリリーと呼び、慰めようとのっそり手を伸ばした青年の方はというと、彼女の頭に手が届く前に寝落ちてしまった。
「……それで? そうやって客の前に出てきて挨拶する理由があるんじゃないのか?」
「そうだね。わたしはこの街の情報を訊ねる以外に用はなかったのだけど、そちらも話すべきことがあるなら許可しよう。対価もなしに動かないのは当然さ、ほら、きみもそうだろう?」
「…………まあ」
そんな彼らを一瞥して、話を続けたのは耳触りよくざらついたアルトの声を持った男だ。この場にいるのすら嫌そうな……不機嫌そうな顔をして粗雑に問う彼に、カウンター席とこの店の隅を陣取っていた白衣の女性が理屈っぽく同意する。……いま、反射的に声のした方を向いたらしい男から一瞬だけ動揺が見て取れたような?
いや、あれは照れていた。抑えてはいるが、存外に近くにいた綺麗な女の人にびっくりしたという顔をしている。態度ほど悪いやつではないのかもしれない。照れてる、と相手に聞こえるか聞こえないか程度の音量で呟いてみれば、食い気味に否定が入って、つい笑ってしまった。
「ああ、そうか。僕らはキミたちを待っていたって言えばわかるかい? みんな、冬を終わらせに来ただろう。冬の先に見据えるものは違ってもさ。──"訪ね人"。硝子堂はキミたちを呼び寄せた。この街をあるべき姿に戻さんとするキミたちの味方だよ。」
「エマルカくん、リリー・ウォーカーくん、シキミくん、ノイ=ブラックくん、アドニスくん。春を探し求めて赴いたキミたちの幸運を祈ろう。」
「リングア・リングオ・ローゼスくん、ミラ・ガラクシアくん、ニール・ジーヴラくん、レオン・ベグジルくん、ジェームズ・クローヴくん。冬を打ち破らんと意気込むキミたちの行動力に敬意を示そう。」
「ヴェール・ラケルタくん、ガレニル・エバウスくん、クレアー・フィー・アルネイアくん、そしてヴァンド=レンダーくん。四季の移り変わりを愛するキミたちに心の底から同意しよう。」
ようこそ、とかれは再度言い放って、微笑む。
突然、教えてもいない名を呼ばれた。悪寒。不信感を煽るには十分な事実。暖かかった空間が、突然冷え込んだような心地がした。
「魔法が使われたということかな? それぞれ大した接点もないだろう私たちのことを、予め調べて待っているだなんて、随分と大きなことをするんだね。」
「だからって、この規模は……ああ、なるほど! 精霊たちだね?」
「精霊? 妖精さんってことですか? どこどこ!」
「よく目を凝らしてご覧になってください。ほら、ここにも、そこにもいらっしゃいますよ。」
「わあ、本当だ! すごい、かわいい!」
そこへ、冷静な声がよく通る。数秒空けて、褐色の男が合点のいったように目を見開き、男の言葉に反応した少年と、少年の声に応えた女性があちこちを指さしていた。便乗して彼女の指先を辿り、目を凝らすと、光の薄く散っていたように見えていたそれらが、たちまち姿を変え、茶色い精霊になった。
驚きながら自分の目を擦ると、さらに視界の端で絹のようなものが揺れた。白くて口のない女性が立っている。
「うわあ⁉ びっくりした……オバケ?」
「精霊だと思うわ。この子も最初からいたのかしら? 全然気が付かなかった。」
「こっちはティラミスみたいに甘そうだったけど、こっちは白くてふわふわで、クリームみたいだね!」
「……それはわかるけれど、食べないわよね?」
僕の出した声に反応したのは、花のような見目の女性と鮫歯の子供だ。試しに宙をふわふわと漂っていた小さな精霊をつまんでみたり、白い婦人の眼前で手を振ってみたりしていた。僕もこういう存在とはあまり馴染みがなかったので、驚きこそしたが、今では興味が勝っている。
「レンダーくん、ご名答さ。僕たち硝子堂は彼女らの力を借りながら、訪ね人のみんなをここに集めて、その手助けをしているんだ。だからキミたちの名前を知っていても、何も不思議ではないんだよ。信じがたく思っているヒトには、納得してもらうしかないけれどね。」
「めえ~、よくわかんないよお。羊にもわかる言い方にしてよお~。」
「……まあなんだ、要するに俺たちは同じ目的で集まったってことだろ?」
「おまえたち、みんな、仲間?」
「少なくとも敵には回らんってことだと思うが、どうだか。」
今も寝ぼけている白熊の彼の他にいた獣の特徴を持つ青年たちも、口々に喋り出す。狼の彼は特に警戒が強そうだ。ひどく怯えているようにも見えるのは、特に物怖じした様子もなく、堂々としているふたりが側にいるためでもあるだろう。
「キミたちは協力したほうが遥かに効率がいいとは言っておこうかな。情報の共有は怠るべきではないし、小さな街とはいえ、一日ですべてを回り切れはしないよ。ここにいるほとんどは初対面のはずだしね。一言くらいは挨拶を交わすのもいいんじゃないかな。」
「おい、まだ君たちには説明すべきことがあるはずだろ。 手伝うって、具体的に何だ。君たちも調べているなら、この冬は解決しているべきじゃあないのか?」
「はは、手厳しいね、エバウスくん。その通りだから反論はないよ、大人しく答えよう。ただ残念ながら、僕たちにもこの事象を解決できない理由があるんだ。だからこそ、別方面からの協力を申し出るのさ。」
「僕たちは訪ね人諸君に滞在地を提供する。街の探索を行う期間中、衣食住の保証は確約しよう。それから、街のこともわかる範囲でなら答えている。必要なものは言ってくれれば用意するし、自分たちでは解決できないことがあるなら、できる限り力になろう。悪い条件は出していないつもりだ。この冬を解決してもらうための滞在だからお金も取らない。まあ、硝子堂のメニューをお客として頼んでくれるなら、それはそれで構わないけどね?」
「それはまた、わたしたちに都合良い条件ばかり提示することだね。合理的なのは結構だが……そんなうまい話に裏を疑うのも当然ではないかな?」
「ああ、そうだね。別に強制はしないよ。少し街を回ってみて、自分が落ち着けそうな場があるならそこへ行けばいい。僕たちがしているのは単なる提案さ。キミたちも、それぞれの目的を果たせるといいね。」
説明を終えた店主は、白衣の女性の猜疑にも律儀に答えて、そう締めくくった。
「来るもの拒まず、去るもの追わずの精神だね。悪くない、これだけ整った環境があれば、楽器も傷めずに済むだろうし、僕はお言葉に甘えさせてもらおうかな。」
「ボクはみんなと一緒がいいな。一緒は楽しいよ、みんなで輪を作って、歌ってくるくる回ろうね!」
「確かに、宿屋があるかも、営業しているかも、その相場も、我々の滞在期間も不明瞭ですもの……私もここに置いていただいてよろしいですか?」
「もちろんさ。どうぞよろしく、クローヴくん、ローゼスくん、シキミくん。」
この提言を一番に受け入れたのは褐色の男……ジェームズ・クローヴだった。続いて鮫歯の子供がリングア・リングオ・ローゼス、精霊の所在を指差した女性がシキミと言うらしい──彼らもまた硝子堂の世話になることを選ぶようだ。
ファースト・ペンギンというのだったか、ひとり決断を下してからは他の訪ね人たちも次々にここへの滞在を決めていった。もちろん、僕も乗り遅れず滞在を決めた。少しでも害意に触れたらすぐ離れてしまえばいい。……考えなしというわけではない。
結局、集まった14名全員がここに留まることになった。今回の件に関して言えば、拠点があるというのも、協力者があるというのも、実際そこそこ得難い益なのである。
見知らぬ土地の単独行動というのもまあ危険だ。見たところあまり協調性のなさそうなヒトたちが合意したり、不本意そうな顔をしているヒトがいるのも、そのすべてを理解してのことであったに違いない。
特に、くどいようだが、ここは冬なのだ。それも、並大抵でなく厳しい冬だ。他の季節であればまだしも、こんな環境での不安定な生活は気が抜けない。
「じゃあ、決まったね。僕は啓明。硝子堂の店主をしているよ。どうぞよろしく。」
「ん? ああ、そっか、名前。僕は夕星。ここの店員をやってる。ケイはあれでけっこう薄情なやつだから、もし何か人手を必要にしていることがあったら僕の方に言うといいよ。ほどほどによろしく。」
「ユウ。もっと言い方があったんじゃないか? 大体キミには毎年この時期になると言って聞かせている気がするけどね──」
「あ、あの!」
自己紹介ひとつで喧嘩が始まるの面白いなあ、と静観していたら、おそらくこの中では最も年若いであろう少年がおずおずと口を挟んだ。
「妖精さんたちには、お名前、あるんですか?」
遠慮がちながらも目をキラキラと輝かせてかれらを見上げる少年が傍目からも眩しい。エバウス、と呼ばれていたアルトの彼の寄せられていた眉根も微かに和らいだような気がする。
「あるよ。小さいのはブラウニー。個体名もあるけれど、何せこの数だからね。精霊語以外は解せないから大抵は対話も出来ないし、覚える必要はないよ。彼女らの行動はなるべく好きにさせてやってくれ。この白いお嬢さんはホワイト・レディ。僕たちは硝子堂さんと呼んでいるけれど、好きに呼んで構わないそうだよ。こっちは口と声帯がないから喋りはしないが、ヒトの言語はわかってる。意志も感情もあるから気を付けてね。」
「はーい!」
「……よし、それじゃあ私たちも自己紹介と行こうじゃないの! ほら、ニル起きて、頑張って! 君のことを教えるチャ〜ンス! だよ!」
硝子堂の住民たちの紹介を受けて、次に動いたのはリリー・ウォーカーだった。「ニル」……白熊の……店主からニール・ジーヴラと呼称されていた青年を揺さぶっている。
それを見守る皆の様子ももう最初より柔らかくなっていて、環境のおかげもあってか、僕たちは比較的に打ち解けやすそうな予感がする。不和があるよりはずっといいものだ。
「自己紹介、賛成! さっき冬破りと呼ばれたうちのレオン・ベグジルは僕のことだ! よろしくね〜。」
僕が元気よく手を挙げて挨拶すると、ついにひとつの流れが生まれた。おのおの好きなことを喋ったり、接触を図ったり、歌いだしたり……夕食の時間になるまでがあっという間だったのは覚えている。
……食事の時間になると、何人かは後で食べるとか、気分が悪いとかで外の散歩に出たり、食事を持って充てがわれた部屋へ引っ込んでいってしまった。心配して呼びに行ったひとも何人か出たが、その誰もがひとりで戻ってきて、全員が揃って食卓を囲むことは叶わなかった。僕はそれぞれの自由だと思ってそれほど気に留めなかったが、追いかけたひとたちは大体寂しそうな顔をしていたなあと思う。
……約一名、食事を呑むような勢いで終えて、白衣の彼女……ミラさんを追いかけながら、意気揚々とひとりで帰ってきて、「お友達になった!」とはしゃぐ変なのもいたけど、彼は食事を共にするよりも、交流を求めていたのかもしれない。
「あ、おかえりミラ! みんな聞いて、ボクらお友達になっちゃった! お友達ってすごくいいね、ステキな映画の中のキラキラした空想みたいだね!」
「助手にならしてやってもいいとは言ったがね。」
ミラさんが帰ってきたところで、急にローゼスさんが座席を立って彼女の側に駆け寄りながら、改めて触れ回るので、それを微笑ましく思う。ミラさんが助手だと訂正するのに、ローゼスさんが満足げなあたりがなお面白い。
「? ……? …………。」
「アドニス、どうしたんだい? 牙の間に何か挟まったとか?」
「いや、気のせい、だった……かも。」
「ならよかった。」
「……待て。これ、違和感、これ?」
「……そうだね、気のせいじゃなかったね。」
一番ヒトの輪を苦手そうにしていた狼の彼……アドニスさんも、どうやら心配はなさそうだ。
彼ら獣系の亜人たちの食事の内容をよく見ると、獣に与えてはいけない食材が抜かれていたり、別のものに代用されていたり、細やかな気遣いが見て取れる。
この街にもそれなりそういうタイプの客が多かったのかなあ、などと思いながら、やっとぬるくなってくれたスープを一気に飲み干した。
食後は部屋の案内と過ごし方の説明を受けた。布団の寝心地も悪くはなさそうだし、もう意気投合したのか、相部屋を希望する二人組もあった。かく言う僕も、ノイくんとの相部屋を決めた側であって、訪ね人同士の雰囲気は印象通りに良好だ。
そして、僕個人の視点から追えた初日の全体もここまでだった。
硝子堂の店員である二人が最後に呼びかけることには、明朝、街のことを大まかに教えるので、朝は必ず一度、店に集まってほしいのだと、あちら側もそれだけ。
あの後みんながどうしていたかなんて知らないし、見かけたヒトもいれば見かけなかったヒトもいた。話したヒトもいたし、すれ違って終わりのヒトもいた。そんなものだろう。きっと誰も彼も似たようなものだ。
誰しも、侵されたくない領域はあるものなのだから。
*〈視点─リングア・リングオ・ローゼス〉
「おはよう! おはよう! いい朝だね、今日から大冒険が始まっちゃうね、ステキな冒険が始まっちゃう予感がするね!」
そう歌いながら勢いよく扉を開けたら、いろんなところからおはようが返ってきたの。みんなまだ寝ているかと思ったけど、ちゃんとホワイトやブラウンに起こしてもらったみたいで、昨日の定位置っぽくなっていた席に座ってる。
それでもまだ寝ぼけていて、ブラウンと遊んでる子たちの頭の上を、スーパーボールの動きを真似っこした手で、ぽーん、ぽーんって跳ねながら、ボクも昨日の椅子に座ったよ。
「さ、全員揃ったね。始めよう。今日からはあの冷血漢に代わって僕が説明するけど、聞き苦しくても多少は見逃してね。」
「……昨日からぼんやりと思っていたが、啓明と夕星は仲が悪いのか?」
「いいや? 全く。たまに喧嘩するだけだよ、あれは小言が多いから。」
「キミが、もう少し、お客さんに、言葉を、選んでくれれば、減るよ。」
「事実に慈悲を与える必要性がわからないね。」
「何を言っているんだキミは。僕への慈悲というか客に配慮するんだよ。」
「配慮? 隠蔽ではなく?」
「あはは、すぐ喧嘩するねー。」
「めえ~! れおんくん、笑ってないで止めようよぉ~?」
ユズがニールの質問に答えたら、どこかからぬっとメイが出てきて、なにか始めたよ。それも不毛で楽しそうなやつだね、きっと。
「まあ、そうだね、後にしよう。ケイも早く仕事しなよ。……それで、きみたちは早速街に出るってことでいいんだよね。」
みんなで頷く。返事はヒト任せの子もいたけど、いっぱいいればみんなってことになるから、そう。
「じゃあ、僕からは硝子堂の周囲の目ぼしい場所について教えておこう。正直最初じゃわからない場所もあると思うから、最初は見つけられなくても、どうでもいい時に見つかるかもね。」
「地図もないのかい、この街は。後進的だね。」
「ないよ。必要も在庫も記憶も、ぜんぶなくなってしまったんだもの。」
頑張れ、だって。すごいね、げんなりな子もいるね。
ボクは地図とか全然わからないけど、大体こっちにこれ! がわかればいいと思うなあ。みんなには大切なことなんだね、息をするのが当たり前なのと一緒で。
「気を取り直して、硝子堂を起点とした東西南北に分けた地域情報を伝えるよ。必要なひとはメモを取ってもいい。それくらい、忘れたなら何度でも言ってやれるけどね。」
「東には住宅街、それから駐在所、診療所と街の役所があるよ。大したものはなさそうだけど、どこも一度は行ってみる価値があるんじゃない?」
「西には商店街。学校や郵便局、公園と墓地もあったと思う。きみたちが出歩く日中にヒトが多いのはこのあたりじゃないかな。」
「南は──きみたちが来た方角だよ。森がある。確か森の中には湖沼と民家もあった覚えがあるけど……僕もずいぶん行っていないから、今はどうなっているかわからないな。」
「最後は北。あの大きな山が見えるかい。大きくて白くて青い山。あっちが北で、神社や劇場がある。とびきりおいしいレストランもあったけど、どれも大変わかりにくい場所にあったな。僕もたまに迷うくらいだから。まあ、興味があれば行ってみて。」
「ざっとこんな感じ。もちろん、体調が優れないのなら無理して行動する必要もないし、ひとりで行けとも言わない。各自好きなタイミングで、好きなように、気になるところへ向かうといい。けれど、日が暮れるまでには帰っておいで。お隣さんが心配してしまうと面倒だ。」
かれが話の終わりを告げると、さっそく考え始めたヒトと、相談を始めたヒトと、すぐに行き先を決めたらしいヒトと、いっぱいだった。
……ボクはやっぱりよくわからなかったけど、ボクにはもうお友達がいるから、わからなくても大丈夫だね! ついていったらわかるし、歩いてみたらわかるよね。嬉しいな、楽しみだな!
みんなと冬を壊すの、とっても楽しみだな!
*
〈?〉
「やあ、まだ眠っていなかったんだね。もう夜も深い、眠れないなら何かよく眠れそうなものを提供しようか? 朝はブラウニーが起こしてくれるさ。ブラウニーでダメなら硝子堂さんや僕らが叩き起こすと思うから、安心しなよ。」
「……ああ、そう。わかったんだ。やっぱりキミは頭がいいんだね。前の誰よりも早かったよ。その勇気と行動力はきっと役に立つさ。僕の知ったことじゃないけど。」
「おおむねキミの考察通りだ。強いて言えば、全部わかっていると思われているのは心外だね。そんなんじゃないよ。わかっていたらキミたちなんか最初から頼らない、ね、これは紛れもなく信じていいことだよ。」
「え? どうして冬が終わらなくなってしまったのか程度は知っているよ。キミらにだってわかっているだろう? そりゃそうさ、知らないことばかりじゃあないんだ、僕らだって。」
「できる限りの協力は惜しまないと言ったのに、ソレを教えてやればもっと進むんじゃないか、ね。全くその通り、正論だ──でもさ、少しはおかしいと思おうよ。」
「どうして僕がキミたちのことを信頼している前提なんだ?」
「当たり前だろう。僕らまだ初対面なんだよ、忘れていたかい? なら覚えておいてくれ、今度は忘れないように。」
「今年も、って言っていたろう。毎年訪ね人は来ている。でも冬は終わっていない。この意味だよ。……みんな、色々の事情で帰ってこなくなった。これでまだ信じてすべてを任せろなんて、はは、バカじゃないんだから。」
「話したところで、知っていたところで、解決に及ばなかった実績が残っているんだよ。他でもない、志を同じくした先人たちが証明していった。それは話しても話さなくても変わらないってことでしょ?」
「だから言わないことで、キミたちが本当に冬をなんとかしてくれるのか、その意思が本物なのか、試す手段になると思うんだ。……って建前。ユウとは違って、僕の方は私怨もあるんでね、正直ちょっと意地悪しているところはあるかな。あはは、とにかく譲れないな。」
「この際だからついでに言ってしまうとね、他の誰よりもキミらが一番信用できないよ、僕は。」
「だってキミたち知っているだろう? あるいは他よりも答えに近いところにいるだろう? この街の変なとこ。そんな漠然とした話じゃなく、もっと深く、具体的に変なとこ。なのに異端で、あまりにも冷酷だね。」
「僕らに関しては能動的な邪魔はしないから安心していいけど、仮にも訪ね人として切符を掴んでここへ導かれたのだから、せいぜい露見しないよう気を付けなよ。」
「気にはかけるさ。こっちとしても、誰だろうが死なれれば寝覚めが悪いんでね。そういう大事な確認を怠らなかった報酬としてひとつ、内緒のアドバイスをあげよう。」
「──そうだな、この街で季節を奪われたら死ぬよ。誰でも、必ず、是が非でもだ。あらゆる因果を捻じ曲げて。どういう意味か、どうしてなのかまでは面倒見れないけど。……どう? 役に立つ情報だったかな。」
「悲しいことだね、忠告した訪ね人でもそうやって死んだやつがいるよ。ヒトの話を聞かないったらない。あーあ、嫌だな。僕も自由に動けたら、キミたちなんか拾わないのに。」
「失敬、いや特に言い逃れはないが。今のは悪口だ、ついでに幾星霜積もり積もった恨み言ってね。キミらにも無関係じゃない話、粛々と受け止めておいてくれよ。」
「とにかく、これで大体のことはわかったかな。僕は訪ね人の力が必要だから、絶対にキミたちを裏切れない。当然、キミたちが先に裏切るなら相応の報復はできるし、してもらっても大いに結構だよ。」
「まあ、キミたちも早く僕に信用をくれって、単純なことさ。期待しないで待ってるね。おやすみ。」